いよいよ11月30日(木)、小菅優の新リサイタル・シリーズ「Four Elements 」がスタートします。世界を構成する「四元素」をめぐるリサイタル・シリーズの初回となる今年は”水”。水にまつわるプログラムで構成されています。
今回の演奏曲目についてサウンド&ビジュアル・ライター前島秀国さんによるプログラムノートをアップしますので、コンサート前の予習にぜひご一読いただき、コンサートをより深くお楽しみいただけましたら幸いです。
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2010年から6年がかりでベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲を演奏する偉業を成し遂げた小菅優。彼女によれば、今年から4年間にわたって取り組む『Four Elements(四元素)』全4回のコンサートは、ベートーヴェン・プロジェクトの延長線上に位置づけられるプロジェクトだという。
「ベートーヴェン・プロジェクトの時は、『人間とは何か? どこから来たのか?』という存在論的な問題や、『人間はいかに生きるべきか?』という倫理的な問題を、若い聴衆のみなさんと一緒に考えていきたいという気持ちを込めました。今回は、人間の原点というべき四元素のテーマを通じて、そうした問題をさらに深く考えていきたい、というのが私の願いです。ベートーヴェンが愛読していたシェイクスピアの戯曲が、ギリシャ神話をモチーフにしていたり、あるいはベートーヴェン自身も、ギリシャ神話のプロメテウスを題材にした作品を作曲しているように、アーティストが人間の本質を探求していくと、どこかで必ずギリシャ神話や哲学に辿り着くと思うんです。私自身、そうした問題の答えを求めて思索していた時、紀元前ギリシャの哲学に出会って感銘を受けました」
『Four Elements』のシリーズを開始するにあたり、小菅が引用したエンペドクレスは、四元素の集合・離散という概念によって、パルメニデスの万物不動説とヘラクレイトスの万物流転説の対立を解消しようとした哲学者である。時代や地域によって作曲家は異なるが(流転)、彼らはいつの時代も人間の本質という普遍的な問題を表現している(不動)。『Four Elements』は、それ自体がエンペドクレス的な思想を表したシリーズなのだ。
その第1回「水」のプログラムを組むにあたり、小菅は選曲意図を次のように書いている。
「『水』は様々な文化で生きるために最も重要な元素だと思われています。実際、人間の体は90%水でできている上、キリスト教でも生命の源とされていますが、水は穏やかで純粋である反面、カオスや洪水、つまり破壊の源でもあります(ノアの箱舟)。生きる力を与えると同時に、死ももたらすわけです。
そして水の流れは『永遠』を表しています。過去から未来へ、現実の世界から未知な世界へ、この『流れ』と水そのものの力を中心にプログラムを組みました」
以下に小菅自身の言葉を交えながら、演奏曲目をご紹介していくことにしよう。
ヴェネツィアの舟歌から始まる水の物語
プログラムの最初は、ヴェネツィア発祥の舟歌(バルカロール)から物語が始まる。
1830年10月、ヴェネツィアを初めて訪れたメンデルスゾーンは、ゴンドラに乗った時の印象を手紙の中でこう記している。「船頭たちが互いに叫び合い、夜の灯りが水面に深く反射する。歌を歌う者、ギターを弾く者。楽しい夜だった」。その後、彼が作曲し、「無言歌集」に含めることになる「ヴェネツィアの舟歌」第2、第3 、第1は、流れるような6/8拍子のリズムで船頭たちの舟歌を表現した最初のピアノ独奏曲となった。
「3曲とも、彼が手紙の中で書いた情景をそのまま表現したような作品です。第2 は、舟歌らしいメロディの中にロマンティックな雰囲気が表れています。第3 の最初に出てくる4度音程の掛け声は、船頭たちの叫びが“こだま”しているよう。そして第1が典型的ですが、船頭たちがオールを漕ぐ時のフワッと浮き上がるようなリズム。これはワルツについても当てはまりますが、ヨーロッパ音楽の3拍子系のリズムは、そこに暮らす人々の生活感と密接に結びついていると思います」
それから約60年後の1891年、水の都を初めて訪れたフォーレは、その6年前から「舟歌」と題するピアノ曲を書き始めていた(生涯に計13曲を作曲)。今回演奏される第5番 嬰へ短調、第10番 イ短調、第11番 ト短調は、いずれもフォーレがヴェネツィア訪問後に作曲した作品。小菅は、2人の「舟歌」の特徴と違いを際立たせるため、同じ調性の作品を交互に並べて演奏する。
「シンプルなメロディで書かれたメンデルゾーンとは異なり、フォーレの場合は舟歌という曲名を用いていても、漕ぐリズム以外はまるで違った作品です。メロディよりも和声を重視し、激しい転調や教会旋法も使っています。3曲の中では、第10番と第11番がフォーレ特有の晩年のシンプルな様式。それに対し、より複雑な語法で書かれた第5番は、半音階や和声の使い方に当時の彼の実験精神を感じます」
生涯にヴェネツィアを一度も訪れることがなかったショパンは、フォーレとは別の意味で「舟歌」の可能性を押し広げた作曲家だ。12/8拍子で書かれた舟歌 嬰ヘ長調の優雅なオスティナートは、“漕ぐ”というより、むしろ大海の波のうねりを彷彿とさせる。
「まるでゴンドラが海に漕ぎ出すような作品。音楽の規模も、クライマックスの作り方も、単なる舟歌にとどまらないスケールの大きさを感じます。同時に、舟歌を通じて郷愁が表れているところが、ショパンらしい特徴ですね」。
水の情景表現から、メタファーとしての水へ
メンデルスゾーンの「無言歌集」を弟子たちに弾かせていたというショパン。彼のピアノ曲をリサイタルで積極的に演奏する一方、ワーグナーの「タンホイザー」序曲をピアノ編曲したり「ローエングリン」の初演指揮を手がけたりすることで、ショパンとワーグナーの紹介に尽力したリスト。ワーグナーのオペラを見るためにたびたび外遊したフォーレ。そのフォーレに直接師事し、「水の戯れ」をフォーレに献呈したラヴェル。そして、ラヴェルに影響を受けたメシアンの追憶に曲を捧げた武満……。今回演奏される作曲家たちは時代や地域を越え、いわば波紋のように広がる影響関係で結ばれていることに気付くはずだ。
「フォーレがバイロイト訪問後、友人のメサジェと共作した連弾曲『バイロイトの思い出』を聴くと、彼がワーグナーに並々ならぬ関心を抱いていたことがわかります。フォーレの舟歌第5番には、そんなワーグナーの影響を強く感じますね」
プログラム前半で演奏されるラヴェル「水の戯れ」は、アンリ・ド・レニエの詩「水祭り」から「水にくすぐられて笑う河の神」という一節が楽譜に書き込まれている。レニエの詩は、ヴェルサイユ宮殿のラトナの泉水を詠んだものだが(「水の戯れ」の原題 Jeux d'eau はフランス語で「噴水」の意味がある)、ソナタ形式で書かれたラヴェルの音楽は、一般に“印象派”と括られる色彩的な情景表現だけにとどまらない。
「(展開部の中で)水が溢れるようにアッチェッレランドする箇所が出てきますが、単なる噴水の情景というより、それまで抑えていた感情の爆発を感じます。ドイツ・ロマン派にも通じる、ラヴェルの中のロマン派的な要素が現れた作品だと言えますね」
プログラム後半で演奏されるリスト「エステ荘の噴水」も、一見すると彼がこよなく愛したエステ荘の噴水庭園(大小500あまりの噴水からなる)の情景を、アルペジオやトレモロなどの技巧を駆使して表現した作品のように感じられる。しかしながら、音楽がヘ長調からニ長調に転調する箇所に差し掛かると、リストの関心は技巧的な表現から、より精神的な表現に向かう。その部分において、リストは新約聖書のイエスの言葉「私が与える水を飲む者は、永遠に渇くことがない。私が与える水は、その人の内で泉となって、永遠の命へとわき出るのである」(ヨハネによる福音書4:14)をラテン語で楽譜に書き込んだ。
「晩年のリストの宗教観が滲み出た音楽ですね。人間が水=永遠の命で成り立っているという原点を彼が再認識した、とても個人的で内面的な表現だと思います」
「エステ荘の噴水」の前に演奏される武満の「雨の樹 素描」と「雨の樹 素描Ⅱ-オリヴィエ・メシアンの追憶に」も、水の情景が生命そのもののメタファーに変化していく音楽である。彼が作曲のインスピレーションを得た大江健三郎の短編小説『頭のいい「雨の木(レイン・ツリー)」』には、雨滴を葉の裏にびっしりと溜め込み、驟雨(しゅうう)の後も雨のように水滴を降らせるインドボダイジューー作中でレイン・ツリーと呼ばれているーーの描写が登場する。幼い頃からこの曲を弾いてきた小菅は、そこに人間や生命そのものの存在を感じているという。
「子供なりの解釈で『雨の樹 素描』を弾いていた時、右手と左手が交差する箇所で、大伯母の葬儀で耳にした仏教の鐘の響きを連想したのですが、成人してから小説を読み、レイン・ツリーが(釈迦が悟りを開いた)インドボダイジュだと知って驚きました。小説の中で、レイン・ツリーはさまざまな民族の歴史を背負った象徴的な木として登場します。そこから滴り落ちる水滴も、単なる水というより、人間のさまざまな感情を滲ませた涙のような感じがするんです。個人的な体験が影響しているのかもしれませんが」
『頭のいい「雨の木(レイン・ツリー)」』の装丁を手がけ、武満とも交流があった司修(つかさ・おさむ)は、武満の打楽器作品「雨の樹」ーー「雨の樹 素描」はその打楽器作品の関連曲でもあるーーの初演にまつわるエピソードを描いた小説「水彩」の中で、こんな武満の言葉を紹介している。「君はタルコフスキーの『惑星ソラリス』観た? 魔力があるね、あの中には。水も魔力だな。タルコフスキーの映画には音楽が聴こえる」(司修『版画』)。
武満が愛したタルコフスキーの映画、とりわけ人間の記憶をテーマにした『惑星ソラリス』では、それ自体が生命を持つような雨や海など、さまざまな水がメタフォリカルな形で登場する。そうした水の魔力を意識しながら、武満は「雨の樹 素描」の2曲を書いたのではあるまいか? 水が単なる情景からメタファーへと変化していくタルコフスキー作品を観るように、武満の2曲を聴くことは、少なくとも作曲者の意に反する鑑賞の仕方ではないだろう。
水にまつわる愛、死、変容の物語
プログラムの最後は、水にまつわる恋人たちの愛と死、その変容の物語を描いた2つの作品で締め括られる。
「ドイツのギムナジウムでラテン語と古典ギリシャ語を学んだ時、ギリシャ神話をドイツ語に訳す授業を受けました。授業自体は大変でしたが、神話が伝える物語にとても興味を覚えたんです。私はもともと物語が好きで、普段から映画を良く見るのも、それがいろいろな物語を伝えているから。神話の物語は、現代の小説、映画、アニメと比べて、決して難しいということはありません」
まずリスト「バラード第2番」に関しては、小菅は敬愛するクラウディオ・アラウの説に従い、ギリシャ神話「ヘロとレアンドロス」の物語ーー恋人ヘロに会うため、毎晩海峡を泳ぎ渡っていた青年レアンドロスが荒波にのまれて溺死し、絶望したヘロも自ら海に身を投げるーーに沿った解釈で演奏に臨む。
「溺死の悲劇を最初から予感させる、荒波のような最初の主題。恋人たちの愛を表現する叙情的な主題……。実際に神話を読んでみると、リストの音楽から物語の情景がありありと思い浮かぶんですよ。曲の最後の部分で音楽がロ長調になると、死んだ恋人たちの魂が昇天していくような変容(メタモルフォーゼ)が起こります。そうした変容は、次に演奏する『イゾルデの愛の死』にも共通する要素と言えるかもしれません」
最後に演奏されるワーグナー/リスト編「イゾルデの愛の死」は、騎士トリスタンと王妃イゾルデの悲恋を題材にした楽劇「トリスタンとイゾルデ」の最後に歌われるアリアを、リストがピアノ編曲したもの。船上で媚薬を飲み、激しい恋に落ちたトリスタンとイゾルデは、封建社会のしがらみの中で引き裂かれ、トリスタンは小舟に乗ってやってきたイゾルデの腕の中で絶命する。
「原曲の歌詞を読んでいくと、『In dem wogenden Schwall(渦巻く波の高まりの中に)』のように、官能的なイメージと水のイメージが重なり合う箇所がいくつも出てきます。そうした水のイメージを通じて、イゾルデは単に男女間の愛を歌っているのではなく、実は人間の愛そのものについてコメントしているのではないか、というのが私の解釈です。このオペラの物語は、社会のしがらみと人間の愛は別物だと伝えています。現在よりも束縛の強かった19世紀という時代の中で、人間の自由や素晴らしさを讃えたワーグナーの偉大さを感じます」
大変興味深いことに、ワーグナーは1858年から59年にかけてヴェニスに滞在し、ゴンドラの舟歌を耳にしながら「トリスタンとイゾルデ」の第2幕を書き上げた。ヴェネツィアの「舟歌」から始まった水の物語は、あたかも三途の川を渡る船のように、人間の魂を永遠に導いていく「イゾルデの愛の死」へと向かっていくーー。
前島秀国(サウンド&ヴィジュアル・ライター)
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