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2017/09/26 | KAJIMOTO音楽日記

●シャイー&ルツェルン祝祭管弦楽団 来日を前にVol.5 ―― 「第三の道」のパイオニア、リッカルド・シャイー


新音楽監督リッカルド・シャイーとともに、ヨーロッパの腕利きプレイヤーが終結したルツェルン祝祭管弦楽団の来日まで、あと10日ほど。

シャイーのインタビュー、また主要メンバーのコメントなど、これまで連載してきましたが、多面的で、ある意味一筋縄ではいかない才気をもつ巨匠シャイーについて、もう少し踏み込んで考えてみないと彼の「音楽」をつかみ損ねるのではないか・・・そこで、シャイーのこれまでの演奏を(録音を主体に)つぶさに聴いている音楽評論の矢澤孝樹さんにエッセイを書いていただきました。

(このエッセイは、演奏会当日に販売される公演プログラムに掲載されます)





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幸福なパイオニア
~ディスコグラフィから見るリッカルド・シャイー。そして「第三の道」~



リッカルド・シャイーという指揮者は、長らく私にとって「不思議な存在」だった。もっぱらディスクでのみクラシック音楽に接していた地方の高校生時代、デッカ(当時の日本の名称では「ロンドン」)からの新しいスターとして、次々にディスクをリリースしていた1980年代前半のシャイー。ところが、登場する曲目が尋常ではない。チャイコフスキーの交響曲第5番やロッシーニの序曲集といった「定番」に混じって、いきなりツェムリンスキーの《人魚姫》。有名作曲家に関しても、プッチーニならオペラではなく、《交響曲前奏曲》などが入った秘曲集。プロコフィエフの交響曲なら《古典交響曲》や第5番ではなく、《炎の天使》の素材を用いた過激な第3番。メンデルスゾーンの交響曲も《イタリア》でも《スコットランド》でもなく、合唱入りの《讃歌》から。マーラーはいきなりデリック・クック補筆完成版による交響曲第10番。ストラヴィンスキーの初録音は《春の祭典》ではなく、《放蕩者のなりゆき》、ショスタコーヴィチなら《ジャズ組曲》…という具合で、とにかく予想がつかないものが次々と出てくるのだ。

だが、演奏そのものに奇を衒ったところや不自然な点はまったくなく、オーケストラを気持ちよく鳴らしている。強いて言えば、それ以前の指揮者が背負っていた有象無象の「伝統の重み」からとても自由で颯爽としていて、だから当時の批評ではそのあたりが賛否の評価の分かれ目になっていた、という印象がある。私はむろん「賛」の側だったが、「この人の目指す目的地はどこなのだろう?」と関心を持ちつつ、いささか自分との距離を測りあぐねていたのもまた事実だった。

シャイーはその後も、一方でブラームスやブルックナーを録音しつつ、ヒンデミットの室内音楽あり、ヴァレーズ作品集あり、ベリオのトランスクリプション集あり、ツェムリンスキーの詩編第23篇あり、ショスタコーヴィチの映画音楽集ありと、ユニークなレパートリーを次々と録音していった。さらに有名作品も、カップリングの妙で聴かせる。コンセルトヘボウ管弦楽団とのマーラーの交響曲全集録音シリーズでは、しばしばベルク(それもピアノ・ソナタの管弦楽編曲版や《初期の7つの歌》など)やマーラー自身の編曲による《バッハ組曲》など、「なるほど」と膝を打つ曲目が併録されていたし、ブルックナーの交響曲第6番に、ヴォルフの歌曲が作曲者自身による管弦楽伴奏版で併録されていたのにも唸らされたものだ。

シャイーの関心は、さらに、有名作品の「エディション」そのものに及ぶ。シューマンの交響曲全集をマーラー編曲版で録音し、メンデルスゾーンの《スコットランド》交響曲は、最終完成版でなく、1842年にロンドンで初演された際の版を使用。この盤は『メンデルスゾーン・ディスカヴァリーズ』と題され、他にもピアノ協奏曲第3番の補完版や《フィンガルの洞窟(ヘブリディーズ諸島)》のホグウッド校訂による1830年ローマ版など、珍しいものが目白押しである。さらに最近では、再録音となるブラームスの交響曲全集において、《第4番》の最終的には削除された序奏を復活させ、驚きと反響を呼んだのは記憶に新しい。

こうしたエディションへの関心は、2005年にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスターに就任してから顕在化しているが、もうひとつこの時期から見逃せないことがある。それは、古楽演奏、ピリオド楽器演奏からの成果の導入である。2007年に同楽団と録音した《クリスマス・オラトリオ》をはじめとするバッハの宗教曲・協奏曲の録音は驚きだった。およそ古楽演奏とは縁のないように思われた老舗が、ヴィブラートを控えた弦合奏と躍動的なリズム解釈で、目の覚めるように新鮮な、モダン楽器による新世代のバッハを聴かせていたからである。その一方でクラヴィーア協奏曲の独奏にはチェンバロではなくピアノ(ラミン・バーラミ独奏)を起用、シャイー自身が言う「文献学的研究に現代楽器による現代の解釈を組み合わせる“第三の道”」の実践が聴かれる。

この傾向は、2007~09年にかけて行われた同楽団とのベートーヴェン:交響曲全集にも顕著にみられる。アーノンクールやジンマン、ノリントンらが切り拓いたH.I.P.(Historically Informed Performance)を大胆に導入。現代オーケストラには実行困難なメトロノーム指示の遵守によりオーケストラに負荷をかけ、高エネルギー状態を常に維持する圧倒的な演奏だった。だが一方でオーケストラの特色を変質させることなく「生かす」意識が顕著だし、ベーレンライター新校訂版でなく従来からのペータース版をあえて用いるなど、やはり彼ならではの「第三の道」が選ばれている。こうした傾向は前述のブラームス録音にも受け継がれている(もちろん現れ方は違うが)。ガーシュウィンやラヴェルのアルバムに、ジャズ・ピアニスト、ステファノ・ボラーニを起用するあたりも、曲の本質表現と現代性を両立させようという「第三の道」の顕れなのかもしれない。

さて、こうしてシャイーのディスコグラフィをたどってきたが、このマエストロが何を目指してきたかについては、むしろ後輩指揮者たちの歩みから逆証明されるように感じられる。5歳下のサイモン・ラトル、9歳下のパーヴォ・ヤルヴィらの活動を概観すると、シャイーが追求してきた世界と被る部分が多く見受けられる。それを、既存の「名曲」観にとらわれない幅広い視界(そこには「ジャンルを超える」意識もある)、エディションの唯一絶対性を揺るがす柔軟な視点、H.I.P.の創造的導入、以上の三点に集約することができるだろう。そして彼らの後続世代(ロト、クルレンツィス、ネゼ=セガン、エラス=カサド、等々…)はこうした潮流を着実に、それぞれの形で継承している。

芸術が同時代の社会を移す鏡ならば、ポスト冷戦時代の多様な価値観の顕在化が、そこに反映されていると言えようか。当初不思議にも思われたシャイーの活動は、まぎれもなくその先取りだったのだ。しかしそれは、先鋭な問題意識と言うより「自分が関心のあることに熱意をこめて取り組む」という自然な姿勢を貫いてきた結果なのではないか。だからこそシャイーの音楽は、ことばの本当の意味で、幸福で健康的なのだ。

「目的地は?」と首をひねったかつての私の疑問は、「この人は、どこまで行くのだろう?」という期待に、とうの昔に代わっている。ミラノ・スカラ座の音楽総監督に就任したシャイーは、いよいよオペラでも腰を据えて新しい領域に向かうだろう。今回のルツェルン祝祭管弦楽団との来日公演は、そんなシャイーの過去・現在・未来が凝縮された内容だ。ベートーヴェン、ストラヴィンスキーはいかなる解釈となるのか。また、録音では聴くことができなかったR.シュトラウスに、どのような演奏を聴かせるのか。プログラミングも、ベートーヴェンの2曲は悲劇と喜劇の対極を並べた大胆な組み合わせだし、シュトラウスが《ツァラトゥストラ》の超人の世界で壮大に始まりながら、《死と変容》という人間的な生死の問題に立ち返り、《ティル》の諧謔で終わるという流れも興味深い。この「幸福なパイオニア」たるマエストロのタクトに、私たちもまた幸福に翻弄されようではないか。
 

矢澤 孝樹(音楽評論)



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