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2013/11/02 | ニュース

◆ヨーロッパ津々浦々 ― 第1回「ドイツ・バイエルン州」:バンベルク響とマーラー指揮者コンクール

面積約1000万平方キロメートルといわれるヨーロッパ。毎時、毎日、毎月、毎年、この壮大な敷地内では名演(だけではないかもしれませんが…)が繰り広げられ、また数々の音楽イベントが催されています。
当ブログではしばらく、“旅する音楽評論家”(?!)松本學さんに、今年ヨーロッパ各地で見聴きした出来事をつづっていただくことにしました。松本さんには既に今年、ザルツブルクでのサイモン・ラトル&エル・システマの子供たちのコンサート(こちら)や、スイスはルツェルン・フェスティバルの開幕の模様(こちら)をレポートいただきましたので、その続きの「音楽旅行記」としてお楽しみいただけましたらうれしいです。

早速ですが、本日のお題は、ドイツはバイエルン州のバンベルク。昨年にブロムシュテットとともに来日したバンベルク響の活動レポートとしても、お読みいただけます。


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 ドイツのオーバーフランケン地域を代表し、戦禍を受けなかったために古都の美しさを損なうことなく今に伝えるバンベルク。レークニツ川に通ずるリンカー・レークニツアルム川とマイン=ドナウ運河を有し、“バイエルンの真珠”、特に川辺を“小ヴェネツィア”と讃えられる明媚な町だ。


川沿いに建つ旧市庁舎。フレスコ画でも名高い (※)

 ヘーゲルがこの地で新聞を編纂しながら『精神現象学』を発表したことや、E.T.A.ホフマンが劇場監督を務めたことでも知られるが、音楽ファンならば、この名を聞いて真っ先に思い浮かべるのは、もちろんバンベルク交響楽団だろう。2003年に州立に格上げされ、バイエルン州立フィルハーモニー管弦楽団という別名を持つことにもなったこのオーケストラは、昨年11月にヘルベルト・ブロムシュテットと来日し、ブルックナーの交響曲第4番の名演で多くの聴衆を感動させた。ヨーゼフ・カイルベルトやオイゲン・ヨッフム、ホルスト・シュタインなどの往年の指揮者の名も懐かしく、初代首席指揮者のカイルベルトの名は、93年9月に新設されたオーケストラの本拠地、Konzert- und Kongresshalle(コンサート&会議場)のコンサートホールの名にも冠されている(それまではドミニカナーバウ Dominikanerbauというドミニコ修道会の教会が会場で、90年代まで録音にも使用されていた)。2000年からは、首席指揮者に就いたジョナサン・ノットのもと、コンサートに録音にと新たな歴史を刻んでいるところだ。


コンクール会場=カイルベルトザール(Joseph-Keilberth-Saal)外観


コンクール会場=カイルベルトザール(Joseph-Keilberth-Saal)外観 (※)


ホールのロビーに展示されている客演指揮者のポートレイト&サイン集 (※)


ホールのロビーに展示されている客演指揮者の指揮棒 (※)


ドミニカナーバウ(改修中) (※)


バンベルク交響楽団

 このバンベルク交響楽団が、昇格および本拠地移転の翌年からスタートさせたのが、グスタフ・マーラー国際指揮コンクールである。バンベルク響とともに創立に加わったのはマリーナ・マーラー。彼女は作曲者グスタフ・マーラーの次女アンナ・ユスティーネと、指揮者アナトール・フィストラーリとの娘で、マーラーの孫に当たる。コンクールは3年ごとの開催で、2004年の第1回時にグスターボ・ドゥダメルを見出したことで幸先のよいスタートを切った他(この時、松沼俊彦も第3位に入賞)、第2回には東京交響楽団にも客演したベンジャミン・シュウォーツ(米)、第3回にアイナルス・ルビキス(ラトヴィア。2014年2月に初来日予定)や、ヨルダン・カムジャロフ(ブルガリア)を輩出している。


コンクール創設者/名誉審査員のマリーナ・マーラー


2004年、同コンクール出場中のドゥダメル

 指揮コンクールは、トスカニーニやブザンソンなど有名なものが10ほどあるが、当コンクールはその中でもかなり若いもので、近隣のフランクフルトで行われるショルティ国際指揮コンクールとスタートの時期はほぼ一緒(ショルティは2002年に開始。2年ごとなので2012年には第6回が行われた)。双方とも、街をあげての催しであること、地元のオーケストラが演奏面で支えているのも同じで、世界で最も最もオーケストラがすぐれた指揮コンクールとも言われている(フランクフルトはヘッセン放送協会の主催で、放送響と歌劇場オーケストラの2団体が参加)。

 第4回グスタフ・マーラー国際指揮コンクールが開催されたのは、今年6月7~14日。折しもこの時期、ドイツ東部は洪水に見舞われ、ヘンデル音楽祭は中止の憂き目に遭ったほど。バンベルクも連日の雨だったが、洪水は回避。また、雨はセミ・ファイナル前日であがり、翌日からは晴天に恵まれたのも幸いだった。


コンクール会場=カイルベルトザール(Joseph-Keilberth-Saal)。ステージにはモニターが設置 (※)


[審査員]
 今回の審査員はジョナサン・ノットを審査員長に、マルクス・シュテンツ(ギュルツェニヒ管指揮者兼ケルン市音楽総監督、ハレ管首席客演指揮者、オランダ放送フィル首席指揮者)、ジョン・ケアルー(指揮者)、ロルフ・ヴァリン(作曲家)、ルーラン・ランゲヴート(ケルン・フィル支配人)、ジョナサン・ミルズ(エジンバラ国際音楽祭ディレクター、作曲家)、アルベルト・シュミット(ドイツ・カンマーフィル・ブレーメン:マネイジング・ディレクター)、ヴォルフガング・フィンク(当時バンベルク響総支配人)、クリスティアン・ディベルン(バンベルク響楽員理事メンバー)。それに名誉審査員兼コンクール・パトロンとしてマリーナ・マーラーを加えて構成。


審査員長/バンベルク響首席指揮者のノット

 その顔触れからは、第1回のサロネン、サラステ、リンドベリや、前回のブロムシュテットなどのよく知られた名は減少しており、半数が指揮者でなくオーケストラ・マネージャーで占められているのが気にはなるが、彼らは楽団の方針や、売れる売れないに最も敏感であり、かつコンテスタントたちにとっては、その後の仕事に直結することを考えればこのスタイルもありなのだろう。なお、ケアルーは日本ではあまり馴染みでないかも知れないが、ラトルの師といえば、なるほどと頷かれるだろう。
 なお、今回に限っていえば、審査委員長のジョナサン・ノットがインフルエンザ(?)でセミ・ファイナルから欠席し、そのまま戻れなかったことが惜しまれる(これは長引いて、コンクール後もしばらく体調不調が続いたらしい)。

[課題曲]
 課題曲は、コンクールのタイトルからも想像できるように、マーラー作品が含まれる。今回は交響曲第1番から第1楽章、第6番第2、3楽章、《さすらう若人の歌》、リュッケルト歌曲集から〈私はこの世に忘れられ〉で、その他にハイドンの交響曲第92番《オクスフォード》、ベルクの《抒情組曲》から弦楽オーケストラのための3つの小品、リゲティ《メロディーエン》、そして審査員でもあるロルフ・ヴァリンの《Act》が設定されていた。
ユニークなのは、その割り振りだ。予選からファイナルまで、この中から自分で選ぶというのではなく、開始直前に審査側からその都度割り振られる。つまりは、これらすべてを準備して臨まねばならないというわけである。

[応募者]
 第4回の応募総数は、60か国407人(男性353、女性54名)。これは過去最高で、事前のDVD審査を経て、11か国12人で予選がスタートした。最も応募者が多かったのはアメリカの51名、次いでドイツの26名で、日本は24名で3番手、その中から田中祐子と鬼原良尚の2名が予選に入った。その他、ベネズエラから予選に通過したマヌエル・ロペス=ゴメスを含む6名もの応募があったのは、ドゥダメル以降のエル・システマの普及を物語る。


ノットと12名の参加者たち

 当コンクールの進行は、予選(Vorrunde)、最終予選(Hauptrunde)[以上、非公開]、セミ・ファイナル、ファイナルの順。
 我々取材陣が参加できたのは一般に公開されたセミ・ファイナルからで、この時点で日本勢が残っていなかったのは残念であった。なお、プレスは主にドイツ、それに英国、フィンランド/フランス、ノルウェー、スペイン、米国などから集まった(アジアからは筆者のみ)。


[予選]
 予選は7、8日。コンテスタントたちには、マーラーの交響曲第1番第1楽章、第6番第2、3楽章、ハイドン、ベルクから、続く最終予選は10、11日で、6~8名(未確認)に絞られ、マーラー《さすらう若人の歌》、リゲティ、ヴァリンが課された。共に持ち時間は40分。

[セミ・ファイナル]
 12日に4名、13日は昼までに2名というスケジュールで、1時間の持ち時間で通しとプローベを行う。セミ・ファイナルに残ったのは、出演順にジョゼフ・ヤング(米 82)、パク・ユンスン(韓 82)、ダリア・スタセヴスカ(フィンランド 85)、ラーヴ・シャニ(イスラエル 89)、チャン・トゥンチー(台 83?)、ダーヴィド・ダンツマイアー(墺 80)の6名[( )内は国籍と生年]。
 課題曲はハイドン、ベルク、マーラーだが、ここでもコンテスタントによって、ハイドンは1&3楽章、もしくは3&4楽章に、続くベルクも第1曲か第3曲に割り振られる。マーラーは〈私はこの世に忘れられ〉で共通。

 簡単に所感を記しておこう。
 ヤングは、リズム感はよさそうだが、確信に欠ける面も見られ、オーケストラ全体を見切れていないようだった。
 パク(チョン・ミョンフン門下)は、左手を使おうという意志は見られ、アクションも大きいが、出てくる音は中庸。マーラーでのラストのグリッサンドの扱いにも疑問が持たれた。
 セーゲルスタムをはじめ、ミッコ・フランクやサラステ、サロネンにも師事したスタセヴスカは、頭の回転が早そうで、プローベでの早口も印象に残る。ハイドンではピリオドを意識したのか、かなり速いテンポをとりきびきびとした造形だが、開始時のテンポが今ひとつ定まらなかったのが惜しい。ベルクもよく整えており、マーラーでも悪い印象は受けなかった。いま一歩強い引きや個性、安定感があればと思う。
 シャニは、態度も話し方も落ち着いていて、棒捌きもそつがなく無駄な動きもない。指示も的確。左手を雄弁に用いるのも巧みだ。マーラーでの“verdorben”の後のファゴットにためを入れるのも効果的だった。


ラーヴ・シャニ

 第52回のブザンソンのファイナリストでもあるチャンは、明るく社交的な性格。少し喋りが多く、ハイドンは途中で止められベルクに移されていた。演奏はどれも丁寧で正統的。よくスコアを読んでいるのが伝わってきた。
 ダンツマイアーは、ハイドンでやや速めで生気ある音楽を聴かせた。左手もよく使うが、そのアクションはクライバーとアバドを彷彿させる。

[ファイナル]
 セミ・ファイナル2日目が終わった後の、13日の17時から3名で競われた。ファイナルの課題は、全員マーラーの交響曲第1番第1楽章。持ち時間はひとり40分で、通しとプローベ。各人の間には15分の休憩が入る。出演順はシャニ、チャン、ダンツマイアーである。
 最初に登場したシャニは、ここでも落ち着いた様子で、淡々と進める。返し練習では序奏を中心にまとめつつ、24小節めのトランペットのテヌートを指摘したり、[22](練習番号。以後同様。)4つめのヴィオラ(と第2ヴァイオリン)のfpを活かしたりも。


ラーヴ・シャニ

 続くチャンは、弱音が繊細でとてもよい。[19]5つめ“Ganz…”部の1拍目を、第1ヴァイオリンに付されたクレシェンドとアクセントを意識してたっぷりとったり(“unmerklich”という指示があるものの)、[25]前はアクセントなしのテヌートで演奏。またここはシャニと同様、ファゴットと中低弦の歩みを重くべったりと演奏したのが記憶に残る。[13]からは随分とテンポを遅くとっていた(そのため、pppでロングトーンを吹くテューバが大変そうだった)。


チャン・トゥンチー

 ダンツマイアーはテンポや音楽の流れに関しては最もトラディショナル。337小節のppを徹底したり、前の2人がそのまま突入した[26]の入りもごく僅かにためを入れる。通した後の序奏の練習でも、デュナーミクなどかなりよい演奏を展開したと思う。


ダーヴィド・ダンツマイアー

 さて、結果は第1位がシャニ、そして第2位はチャンとダンツマイアーの分け合いとなった。筆者の感想としては、セミ・ファイナルはシャニがよかったものの、ファイナルに限っていえばダンツマイアーかとも思ったが、結果は以上の通り。トータルとしては妥当だろう。
 終了後に、オーケストラのメンバー吉田なを美さんに少し話を伺ったところ、練習でのアイディアの豊富さ、指示の的確さ、右手と左手の多弁さなどで、やはりシャニだろうということだった。

[ファイナル・コンサート(ガラ・コンサート)]
 翌14日に行われた入賞者ガラ・コンサートでは、シャニがマーラーの第1交響曲第1楽章、第6番のスケルツォとアンダンテ、それに〈私はこの世に忘れられ〉を披露した(コンサートとしては変則的な曲の流れだが)。第6番スケルツォでの、激烈さよりもアンサンブルと流れを活かした演奏が特に印象に残る。


シャニ

 シャニのプロフィールを紹介しておこう。彼の経歴はなかなかにユニークだ。6歳でピアノを始めた彼は、高校時代にはイスラエル・フィル首席のテディ・キングにコントラバスも師事。指揮は2009年にハンス・アイスラー音楽アカデミーで、ヤンソンス親子の門下であるクリスティアン・エーヴァルトのもとで学び始めている。つまり、指揮を始めて4年で国際コンクールに優勝したわけだ。
 これだけでもスゴいのだが、それだけに留まらない。2007年に18歳でピアノのソリストとしてイスラエル・フィルに登場。その3年後の2010年には同フィルにコントラバス奏者として入団(この楽器を始めて、ごく僅かな期間でオケに入ったということ)。この年の11月にはオケ・プレイヤーとして来日もしたそうだ。イスラエル・フィルでバレンボイム(やメータら)の影響を受け、特にバレンボイムのサポートを得て指揮者を目指したという。ベルリンで学ぶことを選んだのも、そこがバレンボイムの本拠地だからだろう。

 終演後のパーティで、何故コントラバスを始めたのかと尋ねてみたところ、「僕が入ったイスラエルの芸術高校(Buchmann-Mehta School of Music)の音楽専攻では、合唱かオーケストラ演奏が必修で、僕はピアノ科だったので合唱をやらなければならなかったんです。2年経っても歌うのが好きになれず、他のことをやりたくて……。それでコントラバスをやることにしました。こちらは性に合ってたようで、好きでしたね。今は指揮を始めて、ピアノも続けるためにやめてしまいましたが」とのこと。
 その他、審査団に指揮者以外が多いことについては、「指揮専門からはラトルの先生のような方もいるし、マネージャーや作曲家、他の楽器の演奏家も入ることで、様々な異なった視点からジャッジされるのはよいアイディアだと思う」と語っていた。性格もフレンドリーなチャンやダンツマイアーとは異なり、最年少らしからぬクールさが印象的だった。


・・・


 指揮コンクールのポイントはいくつもあるだろうが、プローベ部分を見ていて、音楽以前の問題も少なくなさそうだと感じた。人を惹き付ける魅力やカリスマ性ももちろんだが、たとえば語学。言葉が巧みでなければ、音楽がよくても、それ以前に話を聞いてもらえないこともあるゆえ、きわめて重要な要素だと改めて確信した。ジョークのセンスもさることながら、言うべきこと言い、要求を引き出す性格・能力も大事。

 コンクールの運営面ですぐれている点としては、たとえばコンテスタントの滞在期間がある。ここでは、コンテスタントは最終予選以降に進めなくとも、全日程が終了するまでオーケストラの負担で滞在でき、皆が最後まで見学を許されるのは素晴らしい配慮だ。
 また、全日程終了時にホールでレセプションが行われたが、これには訪れた聴衆が全員参加でき、軽食と飲み物(それもソフト・ドリンクからアルコールまで飲み放題)が振る舞われる。これは市民がコンクールに愛着を持つのにおおいに役立つ筈だ。
 また、やや私的なことになるかも知れないが、オーケストラ・サイドのホスピタリティのよさも指摘しておきたい。特に我々に対応してくれたプレス担当のマティアス・ハイム氏のフレンドリーできめ細やかな対応には深く感謝したい。


コンテスタント:Dalia Stasevska(左)とDimitris Botinis(右) (※)

 なお、コンテスタントして選ばれた日本からの2名である田中さんと鬼原さんについては、予選を聴くことができなかったので、その様子をお伝えすることはできないのだが、鬼原さんは16歳で小澤征爾の指導を受けた経験や、現在はグラーツの大学で指揮を学び、同時にコレペティも務めていることから、ヨーロッパと現場の空気をたっぷりと吸収した強みをこれから発揮してゆくことと思われる。


田中祐子


鬼原良尚

 また、地元の雑誌でも今回の参加者中、最も大きな写真を掲載されていた田中さんは、持ち前の明晰さや明るくすぐに人の心をつかむキャラクターで彼女も今後が楽しみだ。


文:松本學(音楽評論家)
Photos:Bamberger Symphoniker (※は松本學)


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