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―連載第2回「ブーランジェの教え方」で、“ピアソラとフランセは、ブーランジェからの影響が特に濃い”弟子たち、と述べていましたが、フランセはギタリストから見てどのような作曲家ですか?
演奏される機会が少ない作曲家です。技術的に難しいので・・・。
―難しいといっても、彼がギターという楽器を理解していなかったわけではないですよね?
そうは思いません。フランセは多くのギター作品を書いていますし、僕は彼の協奏曲も弾いたことがありますが、“ちゃんと弾ける”んです。例えばロドリーゴの曲よりも、書いてある通りに弾きやすい。ただし指定のテンポが速すぎることが多いので、何が起きたのか認知される前に曲が終わっていることが多い。その点がモーツァルトに似ていると思います。
―速い曲の指定テンポが速すぎるということですね。遅めの曲の場合はどうですか?
フランセの場合、どちらも極端ですね。普通はどちらかなのに。ショスタコーヴィチにも同じ特徴を感じることがあります。作曲家のソルフェージュ能力の高さが関係しているのだと思います。あと言えるのは、フランセがロマンティックな人だったのかもしれないということ(笑)。いずれにしても、作者自身による指定のテンポというのは難しい問題ですよね。
―ご自分の演奏を通してこの問題について考えてみると、いかがですか。
40歳を過ぎて、折り合いがついてきた気はします。若い頃、90年代には、聴き手が認知できる速度まで落として演奏することを無意識に行っていた。でも、きちんと再現すれば細かい所を知らない人にも伝わるのではないか、と思えるようになってきています。あるものを表現するために別のものを殺す必要はないという意味で。若干テンポを無視して構築物をすべて見せるという方向ではなく、運動性は殺さずにいかに美しく表現するかを意識する、ということです。和声や対位法的な受け渡しをどう演奏すれば、人に露骨に気付かれずに、なおかつ気づいている人にとっては最も効果的に、聴かせることができるのか。それを考えてみるということです。さりげなくやることが一番伝わるようにもっていく、と言うのでしょうか。とにかく、自分の場合、速い曲を弾くテンポは速くなっていると思います。
―ところで、フランセは生誕100年とはいえ、あまり騒がれなかった印象があります。
どちらかというとモンポウの方が取り上げられましたね。結局、“スタイル”が無いと評価されないんですよね。その点フランセはオーセンティックだから注目されない。
―オーセンティック・・・。
フランセは、例えるならば「これ、変わった形してるな」っていうお菓子ではなくて、物凄く美味しいオーセンティックなショートケーキなんです。ぱっと見てわかるものは無いといいますか・・・。
―フランセはもう少し早く生まれていたらよかったのかもしれないですね・・・。
子供の頃に“神童”といわれるのは、前の時代の価値観における神童ですからね。“前衛”ではなかったんです。ポジティブにいえば、物凄い品が良かったのだと思います。B級グルメ的なところがない。屈託がない。でも僕は屈託がない、能力に曇りがない人ってなかなかいないと思うんです。
―“前衛”といわれる音楽が20世紀にあり、それを通り越して21世紀になった時に、“20世紀に前衛ではなかったもの”が復権した、という流れからみると、フランセの再評価はこれからなのでしょうか?
そうですね。ピアソラもモンポウも、モンサルバーチェもプーランクも、調性を使っていた。Out of fashionだと言われていたそうした人たちが、21世紀になってニュートラルな評価を得られるようになってきています。表面だけを見て、前衛であるとか、スタイリッシュである、と言うのも勿論良いことだと思いますが、ケージはこうだった、サティはああだった、という前に、音楽というのが技術としてどこまで20世紀の科学と同じような意味で発達し伝承されてきたのか、それを考えてみると視野が開けるのではないでしょうか。
―技術?
前衛を支持する人たちも、サティを支持する人たちも、オーセンティックに・標準的に構築されたものを認めたがらない傾向があったのだと思います。美術の場合、デッサンから、絵の具の塗った面や色彩そのものが面白いという方向に進んでいった。極論を言えば、面白い色を出せる人はデッサンができなくてもいい、遠近法が分からなくてもいい、という方向です。音楽の場合、これは“歌えるメロディ”に関係すると思います。メロディが徐々に無くなって色彩(=音色)だけになっていく。ついには関心の的が音そのものになる。
―微分音などの出現に行き着くわけですね。
そうですね。その後、21世紀になって「人間はそこまで聴けないんだな」と気づいて、ある程度中間地点に戻った。そこが、かつて“前衛”ではなかった者たちの再評価の出発点になっていると言えると思います。